Feb 10, 2010
年頭に「今年はブログを書く」とかいいながら、この間すっかり書けていなかった。ずっと原稿書きで忙しかったので、ブログを書く気にもなれなかった。しかも一見すれば全然違うようなテーマを扱っていたので、本当に大変だったのである。
1月中旬くらいまでは『季刊まちづくり』という雑誌の特集企画にかかりっきりであった。都市計画の制度改正の動きを踏まえて、今後何が必要かのアイデアを並べたようなもの。こちらが企画立案したものなので、目次案の検討から原稿の依頼、他の人が書いた原稿へのコメントに、自分で担当する分の執筆、さらには全体まとめの原稿書きと、やることは山のようにあった。十分にやりきれなかった部分も多く、不満も残るのであるが、まあ終わってよかったというところである。
その後は、『ホームレスと社会』という雑誌の原稿書き。こちらはいわゆる住宅弱者に向けた居住支援について、近年調べているNPOの活動を軸に紹介するもの。単著での原稿なので、上のような他の人との調整がないのはよいのだが、これまで関わってこなかった分野の雑誌への執筆であり、完全“アウェイ”の状態で何をどう書けばよいのか大いに悩み、なかなか筆が進まなかったのであった。なんとか書き上げたものの、これでよいのかは未だ悩むところであり、原稿は提出したものの校正時にどこをどう直そうかを引き続き考えているので、終わったようで終わっていない状況である。
…と全く異なってみえるテーマでの原稿書きを終えてみると、いったい私は何の研究者なのかがよく分からなくなってくる。前者の都市計画も、後者のハウジングもやってきたわけであるが、ここに来て両者の内容がかなりかけ離れてきていて、研究者としてはある意味「分裂」気味である。良いものをよりよくしようという志向が(最近は)強い感じの前者と、悪いものを最低限ここまで持っていこうという志向の後者とで、発想のベクトルは真逆にも思えてくる。
一応自分の中では、「まちづくり」を媒介に「都市計画」と「ハウジング」はつながっていて、また弱者も含めて出来るだけ豊かな住まいで暮らせるまちがよい都市という感じで捉えているのであるが、やはり両者の方法論は違うし、やっている人々の集まりも別だし、そのあたりは難しいところである。本当はきっちりと両立させて、両者がつながるような成果が出せればよいのだが、そこまでの力量もないので、中途半端に両方やるとどちらからも非難を浴びそうなのが少々怖い。多分今回の2種類の原稿も、都市計画プロパーからは考えが足りないと言われ、ホームレス系の人々からは実態を知らないと言われそうである。
どちらか一方に絞ってその分野できっちりと成果を出すのがよいのか、それとも今までのスタンスをとり続けて両立を目指すのがよいのか、以前からずっと悩んでいることではあるのだが、ここに来てさらに難しくなったような気がする。
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Jan 07, 2010
○10+1のweb siteで、「ゼロ年代の都市・建築・言葉」という特集を読む。「ゼロ年代の都市や建築を語るうえで参照すべきもの」が挙げられたアンケートなど。こういう時の「都市」とは、私がいる都市計画の分野とはまた違う意味なので、ある意味別世界の話なのだが、それでも興味深いところはある。
○建築(のデザイン)系の人達というのは、こういう形で物事を俯瞰的に考察して発信しているから面白い。都市計画系ではたぶんこういうことはしないだろう。俯瞰と言うよりは虫の目、中長期の回顧・展望よりは目の前の課題、になりがちなので。本来都市計画というのは、俯瞰的で中長期的なものだったはずなのだが。
○記事の中では重要な書籍=言葉が結構挙げられているが、都市計画系で何が該当するかと問われても、なかなか思いつかない。もちろん本も論文もたくさん出ているけれども、主流だった思想とか注目すべき論考というものは、見えにくい気がする。そもそも思想とか論考という形のものが少ないし。むしろ都市計画の外部、社会経済状況の変化の方が、「参照すべきもの」として挙げられるのではないか。
○外部からの刺激に対応して考えているだけで、内部では独自の思想が生まれず、外に向けて発信もされていないのだとしたら、この分野は大変さみしいことになる。さみしいだけでなく、研究分野としてどうなのか?という気もする。
○この十数年というもの、現場重視・実証重視の風潮が高まった分、抽象的な思考というものの価値はすっかり落ちてしまったようにも思う。思考していても主に長老の先生が中心で、大変含蓄はあるのだが、時には現代的な感覚と外れているようにみえるものもあるし、また思考に対して思考を投げ返すのが難しい部分もある(受け取ってもらいにくく、そもそもかみ合いにくくもあるので)。
○もっと若手が思考して、思考をぶつけ合って、発信して、新しい思想をつくりあげていく必要があるようにも思える。そういう意味で、建築(デザイン)系の動きというのは、刺激的であると同時に、うらやましいのである。実は私の知らないところ、ネット上やリアルの活動の中に、都市計画の“論壇”的なものがあるのかもしれないが。
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Jan 01, 2010
○8月以降、約半年ぶりの書き込みである。先に書いたのは各党のマニフェストの整理で(これが以外とアクセス数が多い)、その後民主党に政権が変わったわけだが、その辺に全く触れることもなく、半年もの時間が過ぎてしまった。政権が変わった後だからこそ、改めてマニフェストの内容を精査しなければならないのだろうが。
○書く時間がないわけではないし、書きたいネタがないわけでもない(むしろいろいろとある)。が、書けなかったのは、文章にするという作業が面倒だったから、ということに尽きるだろう。
○この半年は、仕事(研究)関係で結構いろいろなものを書いた。原稿もあれば、講演の資料やプレゼンもあったし、研究会でのレジメもいろいろとあった。かくいう今も、企画した雑誌特集記事の原稿を現在進行形で書いているところである(なので正月はない)。これだけ仕事で書いていると、それ以外の時間にわざわざ文章を書く気がしないのである。
○気軽に雑文として書ければよいのだが、ブログとはいえ、いまだにどうも「まとまった形の論考」を書こうとしてしまうので、アイデアが思いついても、そこから展開を考えるも、うまく論旨がまとまらないようだと、PCに向かって書く気にならないのだ。
○とはいえ、アイデアというものは、書いているうちにある意味自己生成的に生まれて来るものであるから、書いてみないとまとまらないものだろう。となれば、とにかく書かないことには、考えも出てこないわけである。実際、この半年にやってきた仕事も、締切ぎりぎりで焦って書いているうちに、なんとか形になったものも多かったし。
○しかし、アウトプットとして出さなければならないから、書きながら考えるというのは、研究者としてはある意味本末転倒でもある。考えたことがあるから、書いてアウトプットにするというのが、本来的な形であって。今はこの経路がほとんど逆になっているようである。仕事で依頼されたから考える、論文書かねばならないからまとめる、研究費取らねばならないから企画を立てる、などなど。こういう逆転的な状況になっているために、近年の研究というのはすっかり面白くなくなってしまった気もするのだが。
○本来あるべき研究者のスタンスを取り戻す意味でも、依頼がなくても・必要がなくても、考えるようにしなければならない。一方で、書かなければ考えられないわけだから、まずは書くことから始める必要があるのだろう。書きながら考えて、考えては書く。このフィードバックを続けていくことが、研究者としての基礎トレーニングのような気がする。どんな一流のスポーツ選手でも基礎練習を毎日欠かさず行うように、研究者も出来るだけ毎日書いて=考える必要があるのだろう。
○ということで、今年はこのブログも出来るだけ積極的に書いてみたい。思いつき程度に過ぎず、論旨がまとまってなくても、まずは書くことから(改めて)始めること。新年にあたって、これを今年の抱負としてみたい。
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Jul 06, 2009
とある研究会で、高齢者住宅の先進事例の話を聞く。NPOなどが中心となって、地域の住民が協力して高齢者をサポートする活動を行っているような例である。私自身も、NPOによる住宅事業などを研究しているので、そのような事例はいくつか調査しているのだが、自分の知らないところでまだいろいろと事例があるというのは、大変興味深い。
だが、聞いているうちに、若干の疑問も浮かんできた。今日紹介された事例や、私が調査している事例など、興味深い先進事例というのは全国にたくさんあり、まだ隠れているものもたくさんあるのだろう。しかし、それらを調査研究することを通じて、研究者は現場に対して何を提供出来るのだろうか?と思ってしまったのである。
調査研究を進めていけば、事例集のようなものはまず出来るし、事例に共通する成功要因や、活動の制約要因のようなものもみえてくるだろう。だが、そういう点については、先進事例に取り組む当事者は既に(少なくとも感覚としては)理解しているのであり、私のような研究者が指摘したところでそれほどの意味はない。あえて言えば、分かっていることが改めて確認出来ることくらいだろう。
当事者が直面する課題に対して、調査研究を通じて何らかの貢献が出来ればよいのだが、研究を通じて示せることと、現場で本当に必要としていることとの間には、やはりどうしてもギャップは生じてしまう。また、活動する当事者というのは、調査して分析して成果が出る頃には、おそらく課題をなんとかクリアしてもう次のステップへと進んでいる/進むことを考えているのであり、そういう意味ではいつまで経っても研究は「後追い」にならざるをえないのではないかという気もしてくる。
先進事例の当事者にとっては意味がないとしても、その後へ続こうとする二番手以降グループには、これらの情報が役に立つかもしれない。全くゼロから立ち上げるよりは、先駆者の経験やノウハウを元にした方が、効果的だからである。ただこれについても、第三者的な研究者を通じてよりも、当事者が直接伝えた方が効果的なのは言うまでもない。そういう意味で、研究者の役割はここでも二次的である。
課題をクリアするため、あるいは二番手が活動しやすくするため、「制度」化を志向するという役割もあるかもしれないが、今は制度化を行う国や自治体と研究者との間がなかなかつながっておらず、研究成果を制度や政策に直接的につなげることも難しい。また別の観点からみれば、NPOなどの活動は制度や政策に拠らないところで行われるからこそ意味があるのであり、そこに制度の枠をつくってしまうことは問題のような気もする。
などと考えれば考えるほど、事例研究の成果をどこに向けるべきか?がよくわからなくなってくるのである。このあたりは「まちづくり」に関する研究でも同じであり、こういう点に悩んだからこそ、「研究」ではなく「実践」する方向へとシフトした研究者が多く現れたようにも思える。とはいえ、実践だけでは不十分であり、研究することにも十分な意義があると、思っている(思いたい)わけだが、そういう実感が得られないのがつらいところである。
…というようなことを以前も考えたことがあるなと思ったら、すでに2006年4月のブログで同様のことを書いていたという。抱えている問題は3年経っても替わっていないようである。
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Feb 10, 2009
NPO法人西山記念文庫のニュースレターに書いた原稿です。
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2008年の4月に大阪にやってきて、早くも1年が経とうとしている。生まれてこのかた過ごしてきた関東を離れての、初めての関西での暮らし。関東と関西では生活環境が大きく違うと聞いてはいたが、実際住んでみると確かに異なる点が多い。人の気質や行動様式、商店の種類や並ぶ品物、そして街の雰囲気や建物の特性など、様々である。特に街の様子は興味深くて、整備された街区の内側に細い路地が残っていたり、古い木造の長屋やレトロな雰囲気の建物が軒を連ねていたり、昔ながらの商店街が活気を保っていたりなど、実に面白い。家から大学までの通勤の途中でも、また週末に家の周りを散歩するだけでも、いまだに新たな発見があるから、いうなれば毎日「まちあるき」をしているようなものである。
なにしろ、それまで8年間住んでいたのは、茨城県のつくば市。研究学園都市として計画的に整備された、郊外のニュータウンである。直線的で広幅員の車道と上を渡るペデストリアンデッキ、規則的に立ち並ぶ中高層の集合住宅群と広いオープンスペース、道路沿いに連なるスーパー・コンビニやファミレス…まるで正反対の世界だから、その分だけ今の大阪の環境が面白く感じるのだろう。計画的につくられ整ってはいるが、その分制御しきれない異物も目立ったつくばの街と、一つ一つの建物は自由で個性的だけれども、全体としてはなんとなく調和が取れている(気がする)大阪の街。車がなければ全く暮らせない街と、歩ける範囲で用事がほぼ済む街。学生と若夫婦が中心の街と、お年寄りを多く見かける街。どちらが良いということではないけれども、このあたりの対比は、住宅・都市分野の研究者としては、大変興味深い。
研究者としての立場や置かれた環境も、つくば時代とでは大きく変わった。以前の所属は国土交通省の研究所だったから、任期付の研究員とはいえ一応は国家公務員の身分。国の政策に直接・間接に役に立つ(とされる)研究課題と具体的な成果が求められ、様々な関係者との間で調整をしながら作業を進める形で、個人としての活動上の制約もいろいろあった。それにひきかえ、現在は大学のグローバルCOE関係の研究員で、自分で掲げた調査研究のテーマを、基本的には自分自身の手で、自己裁量で進めていけばよい。これもどちらが良いとは一概には言えないけれども、自分のペースで自由に課題に取り組めるのは、大変ありがたいことである。また、建築の研究者ばかりが集まった先の研究所とは違って、現在所属している学際的な研究組織で、建築以外の人文社会系の教員や同僚と意見を交わすようになったのも、大きな変化であり、貴重な機会だといえる。
このような生活上・研究上の環境の変化がどういう形で表れてくるか、今はまだ分からないけれども、これが研究者としての一つの転機になりそうな気もする。東京から離れた大阪という地で、国という立場を離れて大学に身を置いて行う研究活動は、おそらくこれまでの数年間とはまた違ったものになるだろう。現在主に取り組んでいる課題の「民間非営利組織(NPO)による住宅供給・居住支援事業」にしろ、ずっと関心を持って扱ってきたテーマの「住民主体のまちづくり」にしろ、現場レベルで行われる活動が最も重要なのは言うまでもないが、と同時に個々の活動を支えるための仕組みや制度も考えられなければならない。そのような意味で、マクロな仕組みの検討に主眼を置いたこれまでの関東での研究を踏まえつつ、現場に根ざした創意あふれる活動が長年に渡って積み重ねられている関西で、改めて研究を始めることで、何か新しい展開が見いだせるのではないかと、期待している。
この1年は、大阪での生活と大学の環境に慣れるのに多くの時間と労力を費やして、正直言って研究活動はあまり行えていなかった。また、関東在住時に関わっていたプロジェクトも残っていたので、東京出張も多く、全体としては東京を向きながら活動せざるを得なかった部分も大きい。そういう意味では、ようやくこの春から本格的に関西での研究生活が始まることになるのだろう。関西の研究者や現場とのネットワークもまだ全然出来ていないし、最大3年と任期が限られている中でどこまでのことが出来るのか不安も多いけれども、現在置かれた環境を生かして、関西に来たからこそ出来たといえるような、住宅・都市の研究を行えればと思っている。
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Oct 29, 2007
今月初めに、とあるシンポジウムを聴講した。「建築計画と不動産制度の連携」をテーマとしたもので、内容自体は以前から知っていた情報が中心だったが、パネリストの発言はなかなか興味深かった。特に印象深かったのが、あくまでも建築計画にこだわり、不動産制度に解決策を求めることをある意味残念がっていた(ようにみえた)大御所S先生の発言と、そのように指摘されたK先生が学生に向かって述べた、「建築計画に軸足を置きながら、他の分野に手を伸ばしていくことが重要」という発言である。スタンスは異なっているものの、どちらも「建築計画」にベースを置いて物事を考えている点は両者とも共通しているところが面白い。
という話を聞いて、さて私の「軸足」とは何なのか、と考え込んでしまった。これまでにやってきたことを振り返ると、研究分野としては都市計画と住宅問題を主にやってきたが、どちらかに重点を置いていたというわけではない。都市計画については制度的な話とまちづくりとを並行してやっているし、住宅問題ではマンションを中心にしていたが住宅政策的なことも扱っている。最近は、防災復興系の調査研究に関わったり、仕事で建築計画に近いこともやっているし、NPOの活動や経営なんていうことも手がけている。大学で所属していたのは環境計画を主とする研究室で、そこでの助手時代は環境系の論文指導を中心にやってもいた。…というように、幅広くいろいろなことをやっている分、どこが「軸足」なのか分からないのである。こういうふうであるから、学会でどこの分野のセッションに出てもなんとなく「外様」である印象を感じてしまうし、はっきりとした軸足を持っている人々の集まる会合についても縁がないのだろう。
私の出身学科は(少なくとも当時は)「ジェネラリスト」を育てることを目的としていて、都市計画や政策科学を中心に、経済学や社会学なども含めた幅広い教育を受けてきたので、その後もそういうスタンスで研究活動を行ってきてしまったが、ここにきてきちんとした「軸足」を定めなかったことが問題だったような気もしてくる。おかげで、ここをやっていればよいというはっきりとした研究フィールドが定まらないし、活動のベースとなるような所属グループも明確にないし、研究業績を示そうとしてもあれもこれもとなってしまいアピール力が弱くなってしまう。幅広く物事がみられる、分野にこだわらずいろいろなことが出来るというプラス面もあるが、全体的にみるとマイナス面の方が多いように思える。そのあたりは、最近になってより強く感じるようになってきた。
そういう意味では、冒頭の話のように、どこかに軸足を置いた「スペシャリスト」でありつつ、他の分野にも踏み込むのがよいのかもしれない。となると、これから何を軸足にすればよいのだろうか。近年やるようになった防災復興や建築計画はいまさら難しいだろうし、住宅問題はそれなりにはやっているがもともとその筋に入っていないと難しい面もあるから、やはり都市計画になるのだろうか。もしくは、ジェネラリストのままで、スペシャリストにも負けない知識と能力を身につけていくしかないのかもしれない。となれば、いままで以上に努力して、(増やす分野分の)これまでの倍以上の成果を出す必要があるわけで。
研究者として、この先どういうスタンスでどう生きていくべきか。難しいところである。
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Aug 31, 2007
最終日は住宅問題の「郊外住宅地」セッションから。このテーマは住宅問題のみならず、建築計画や都市計画の分野でも、近年盛んに行われているものであるが、住宅地の空き地や空き家の実態を報告するという、似たような研究が多いという印象が少々ある。扱われる事例が増えて知見が深まるのはよいことではあるが、研究全体として「前」に進んでいるのかどうかがよく分からない。実態や問題は十分に分かるが、調べて何になるの?と聞きたくなるようなものも散見されるし、ではどうするんだ?というところが見えないのである。
このテーマに限らず、「今後このテーマの研究で何をすべきか?/どう進めていくべきか?」みたいな部分を、質疑の時間で議論出来ればよいと思うのだが、どのセッションも普通の質疑応答に終始しており、単純な疑問点の確認や論文の主旨をあまり汲まない一方的なコメントが多いのは、非常に残念である。
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その後、都市計画のPD「地域の生活環境保全・改善・創造のための計画システムと支援方策」へ。テーマ設定的に興味を持ったので足を運んだのだが、今ひとつ何が議論したいのかが資料集からも発表からもよく分からない(ちなみに資料集の半分以上は過去の大会発表論文の寄せ集め、それはちょっとないのでは)。これまでの「まちづくり」研究と同様の論点が語られるだけで、何が新しい今日的な論点なのかがみえてこない。あえて言わせてもらうなら、そういう話はもう十分に聞いている、という感じである。といった疑問を質問したら、ポイントは「生活環境と都市計画システムの連携」とのことだったが、であればそこに論点を絞り込むべきではないかと。
ちなみにこのPDでも、2日目の協議会同様に、最後は「今日の議論をきっかけに…」との言葉があったが、すでに数年間活動を行っている委員会がこういうことを言うのはどうかとも思う。会場からの意見や議論も踏まえて今後の活動を進める…というニュアンスも感じられたが、それではこの協議会の主催者はまるで「受け手」に思えてくる。会を主催する側なのであるから、「送り手」として何らかのものを提示することが必要なのではと。具体的な研究成果が出せるとはさすがに思わないが、先に書いたような「今後このテーマの研究で何をすべきか?/どう進めていくべきか?」という方向性を提示することこそが、協議会やPDの役割だと思うのだが。
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午後は急遽入った「中越沖地震」の協議会へ。今回の震災では、柏崎市中心部の商店街が面的に被害を受けており、ここを復興・再開発する話があるので、地元の大学及び学会としてもまちづくりを支援しようとのことである。中越地震では中山間地域の問題が表面化したが、今回は地方都市の中心市街地の問題が表れたという。地震からの復興と、中心市街地の再生を両方果たさなければならないわけで、課題は多いようである。
発表後の質疑&議論では、今後この対象地域をどうすべきか、学会としてどう支援していくかが冒頭から議論されることを期待していたのだが、会場からの発言は地震の被害などの基本的な事項を質問するものばかり。この様子では興味深い議論は聞けそうにないなと思い、途中で会場を後にしてしまった。
この協議会だけではないが、聴衆の参加のもと行っているのだから聴衆からの質疑や意見を受けるべきという面はあるだろうが、そのために議論は拡散し深まっていかない部分が大きいと思う。その辺がとても不満である。聴衆はそこで行われるべき議論の趣旨に沿った質問・発言をしてもらいたいし、実行側は趣旨に沿わない意見・質問は扱わないという判断をすることも必要ではないかと思う。先にも書いたように、協議会というのは、個別具体の情報を提供するための場ではなく、現在の論点・今後の方向性というもっと大きなものを示すための場だと思うので。
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Aug 30, 2007
2日目の朝は、都市計画の研究協議会「都市計画は機能しているか」から。いずれのパネリストの話も興味深かったのだが、どうも語られていることの多くは共通しているように思える。都市計画の制度を住民も関与する形で地域の主体的な運用にまかせること、おおよそこの点に集約されるのではないか。この辺は数年前の学会委員会でも議論されていることであるから、改めてこの場で意見を出し合う/議論することの意義が何かがよく分からない。シンポ最後で「これをスタートに」との言葉が聞かれたが、すでに議論自体は進んでいるのであって、これから新たに議論を始める必要はなく、むしろ具体の制度設計や改革に向けた動きになるのではと。
あと一点気になったのだが、「都市計画の提案制度」については比較的好意的な意見が述べられていた気がするが、現在の自治体の状況ではうまく機能しない気もしてしまう。住民からの提案を十分な説明責任を果たさずに曖昧な理由で却下したり、逆に明確な論理を組み立てられず否定出来ないから認めざるをえないような場合も出てくることが危惧されるのではないかと。
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午前の上記協議会の裏では、建築経済の「集合住宅(団地)再生の社会システムを考える」の協議会があり、どちらにしようか考えたが、結局上記を選択した。というのは、協議会資料をみるところでは、おおよそすでにいろいろなところで聞いた話が多く、あえて聞かなくてもと思ったからである。資料自体は大変充実していて、ここ数年の団地再生研究の成果がまとまっている、役に立つものといえるだろう。しかし、逆に言えばもうこれだけの研究や議論がされている(尽くされている?)わけで、改めて今何を議論すべきなのかが(私には)よく分からない。
これだけ研究がされて、いろいろなアイデアが出ているのに、実際には日本での団地再生はあまり進んでいないのはなぜか。まだ実践的研究が足りなかったり、制度的に問題があるという面もあるのだろうが、ここまで進展が遅いとそもそもニーズがどれだけあるのか?とさえ思えてしまう。ニーズがあまりなかったり、再生しても持続し得ない団地が多いのであれば、むしろ“安楽死”の方法こそ議論されるべきなのでは、という気もしてしまう。
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午後は建築計画の「シェア居住・コレクティブ・コーポラティブ」のセッションへ。この辺は新たな住まい方として注目すべき部分があるので聞きにいったのだが、私の(一応)専門である住宅問題との視点の違いに少々とまどう。実際の居住空間に着目しているのはよいのだが、その空間がなぜ出来たか・どうやって成り立っているかという背景部分(住宅問題的な観点からはむしろ「本質」)があまり語られないのである。例えばコレクティブに関する5636-5637の論文などでは、経営面などについて結論部分でわずかに触れられているから関心を持っていないわけではないのだろうが、そこに関する情報を把握していないのである。シェア居住についても、「シェアして豊かに暮らす」光の面が強調され、「シェアせざるを得ない」というような闇の部分が語られない。まあ、視点が違うのだから仕方ないのかもしれないが。
こういうのをみていると、どうも建築計画というのは「性善説」的−よい空間をつくればきちんと成り立ち豊かに暮らせる−な捉え方、それに対して住宅問題は「性悪説」的−問題はどうしても起きるものだからどう回避・解決するか−な考え方をしているようにも思えてくるのである。ちなみに都市計画はその両面−まちづくりでは「性善説」、集団規定関係では「性悪説」?−を持つのかもしれない。
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Aug 29, 2007
2007年度の建築学会大会(九州)学術講演会に参加した。今年は真面目に3日間とも朝から会場に通い、論文発表や協議会をいろいろと聞いてきた。会場では毎年いろいろと思うところがあるのだが、そのあたりを備忘録としてここでまとめておくこととしたい。
ちなみに特定の論文や協議会を取り上げて具体の意見を書くこともあるが、別にそれを「批判」しているのではなく、あくまでも私個人の観点からみた際の「批評」であるので、(もし関係者の方が目にしたら)そのようにとらえていただきたい。
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朝は建築経済・住宅問題の「合理化システム」のセッションから。数年前まで私も関わっていたテーマを引き続き行っているグループの発表で、具体的な事業イメージが興味深かった。その点は我々が十分に作業出来なかった部分なので。しかし、我々が一番苦労した制度的な部分の考察はあまり進んでいない感じ。発表者とも話をしたが、その辺は出来ていないとのこと。建物や空間の所有権に関わる基本的な問題なので、なかなか扱いにくいのだが、このあたりは誰がどうやって手がければ進むものなのだろうか。難しい。
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その後は都市計画の「協働の形態」セッションへ。「まちづくり」や「参加」という言葉は最近みられなくなり、今は「協働」と言うらしい。とはいえ、内容的には以前のまちづくり事例報告論文とほとんど変わらない気が。「協働」という言葉を使うことで、今ひとつ見えなくなってしまった部分もあるような。新たな視点を示しているのは数少ないのではないか。
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また住宅問題に戻って「住情報」関係。8087-8088の福岡県の住み替え情報バンクの話。郊外に戸建てを持っている人が貸したり売ったりして住み替えるための仕組みで、まだ始まったばかりでそんなに実績が挙がってはいないようだが、システムとしては面白い。データでは住居を売り払いたい人が多かったが、実際は持っていたいが売らねばならず、でもなかなか売れないということらしい。郊外の(相対的に)人気のないストックを活用しうるのか、難しいところである。
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午後一は都市計画のPD「住環境ビジョンの再構築」を冒頭だけ。資料と一部の発表をみたが、今ひとつ論点が分からない。「住環境ビジョン」としているが、どうも「住宅ビジョン」を述べている原稿もあるし。もちろん両者は密接に関係しているわけであるが、住環境から切り込むか、住宅から切り込むかで、やり方は異なるのではないか。また、市街地の住宅地と郊外の住宅地とではビジョンは違うわけで、その辺を一体に扱うのか、個別に扱うのか。討論を聞いていないので、なんとも言えないのだけれど。
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上記を途中で抜けて、自分自身&自分が関与した論文のセッション、住宅問題の「居住福祉」「居住支援」へ。近年徐々にこのようなテーマが増えているような。現在この辺の問題を扱っているだけに、他の発表もいろいろと興味深かった。私の場合は問題を全般的に扱っているのだが、その他の方々の個別特定の階層・対象に絞って掘り下げる研究、例えば8109のDV被害者の住宅確保に関する研究などでは、私には見えないことがクリアになっていて、大変参考になる。広く浅くか、狭く深くか。どちらの方がよい研究になるかは、いまだによく分からないが。
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Dec 04, 2006
今は一研究者として研究だけをやっている身分だが、今後も研究者として生きていくことを考えると、大学で教えるというのが一つの選択肢となってくる。となると、当然学生にものを教えることが求められるわけだが、そこで考えてしまうのが、学生への「教え方」である。知識を伝える講義はまだよいとして、論文を自分でつくりあげていくいわば「研究力」というのはどうやって教えればよいのか、今ひとつ分からないのである。
自分の場合を考えてみると、ごくごく基本的なノウハウや研究に対する姿勢は、教えられたというより、研究室全体の雰囲気の中で学んできたように思うが、それをどうやって伝えればよいのか、よく分からないのである。個別の場面場面で何をすべきかはアドバイスできるが、全体として「研究の仕方」をどう身につけさせられるのかは、なかなか難しい。
そこで自分の趣味であるサッカーの世界を見ると、指導の体系というのがかなり整えられているし、また個別の技術ではない部分、例えば個の力を発揮させる姿勢とか、場面場面での判断力を育てる方法というのも、いろいろな試みがされている。日本サッカー協会の示す方向性があって、それに基づいて全国の指導者がある程度同じ方向を向いて、全体として育成を進めていこうという形である。
で、振り返って我々分野の研究の社会をみると、そういう形はほとんどみられない。学生の指導は個々の教官のやり方にまかされているし、またその方法も個々人の個性や経験に基づくものであって、方法論が体系化されているわけではない。研究というのはそういう個人的なものだ、という見方もあるかもしれないが、研究分野全体として成果を上げ発展させていく意味では、ある程度の指導の体系化というものが必要になるのではないか…と、サッカー界を見ていて思ったりするのである。
学会というのは、基本的には「研究を行う者」の集まりであるが、研究を行う者は指導を行う者でもあることが多いわけだから、研究に関する議論の他に、指導に関する議論もあっていいように思う。研究者を育てるにはどういう指導をすればよいか、学部・修士・博士と進む中で段階的にどういう能力を伸ばしていけばよいのかなど、基本的な方法論が体系化されて共有化されてもよいのではないかと。サッカー協会みたいに、学会としての「指導ガイドライン」みたいなものを提案するというのはどうだろうか。
その前に、研究というもの自体の体系化もされる必要があるだろう。研究者は個人で動くものであるが、研究分野全体として「こういう研究をしなければならない」「こういう成果を上げるべき」というのは存在するのであろうから、そういう方向性や研究の方法の体系化などが図られなければならないのではないか。そのようなことがないから、同じような研究を様々なところで平行して行われることとなり、成果がかぶったり、力が分散されて十分な成果が出ないというような状況が生まれているのではないか。
例えば、都市計画学会では、毎年学会誌で「本年の研究の動向」をまとめているが、これ執筆する担当者が個人としてまとめる単なる論文紹介・論文一覧となっていて、正直あまり面白くない。どうせなら、当該分野の研究者数人を指名して議論してもらい、この分野で今年どんな成果が出たと言えるか・まだ何が足りないか・来年は(もしくは短期・中期的に)どんな研究をすればよいのか、といったあたりの提言をまとめるくらいのことをしてもよいようにも思う。
それくらいしないと、サッカーと同じように、個人のレベルは上がっていかないし、全体としてのレベルも上げることが出来ず、世界で「勝てない」のではないか。現時点で勝てているのか、ランキング何位くらいなのかも分からないし、そもそも「勝つ」必要などない、と言われればそれまでなのだが。
(ちなみにこの文章は、フジテレビで12/3深夜に放送された番組「もう惨敗は嫌だ!日本サッカー再生計画」に触発されて書いたものです。この番組はなかなか興味深かった)
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